祖母の具合が良くない。
たしか一年前の今日あたり、ロンドンから従兄弟の結婚式で東京に戻ってきた時、母から
「たまには声くらい、聞かせてあげなさい。」
と言われ、母の携帯で電話したのが祖母と話した最後の記憶だ。
電話越しで祖母は
「あんたがいつイギリスからお嫁さんを連れてきてもいいように、サンキューは覚えたけんね。」
と、それはそれは自慢げに教えてくれた。
それから半年くらいして今年の初めごろ、何やら脳が原因で倒れたことを母から電話で教えられ、あれよあれよという前に病院生活になり、その後遺症なのか記憶までもぼんやりしてきたらしく、母曰くもう昔の祖母にあった生命力みたいなのは限りなく弱くなっているそうだ。
九州育ち、娘六人を育て上げた、怒らせると祖父すら暫く手がつけられなくなるあの祖母が、たった半年で弱りきった老人になるもんかと、勿論ある寂しさの裏に、ある種、まだ半信半疑な自分がいる。
祖母は怖かった。とにかく怖かった。
もともと、僕の双子の兄が祖父の名取(下の名前の漢字一つを親族から譲り受ける)だったのもあり、幼少期から僕はどちらかというと祖父母夫婦のお気に入りの孫ではなかった。
ましてや、おままごと好きで家にこもってピアノを弾く僕なんかよりも、野球に打ち込んで日焼けした黒黒しい肌が眩しい兄の方が、野球観戦や相撲観戦が好きな祖父母にとっては名取も相まって可愛くて仕方なかったようだ。
そういうこともあってか、僕はあまり祖母のお気に入りではなかったがそれでも、双子の兄ばかりを溺愛するのは厳しい祖母心にも忍びなかったのだろう。時々思い出したように僕にもお小遣いをくれたり、あんたは大きな声で挨拶ができるねと、ないものを絞り出したような理由で褒められたりしたものだった。
祖母は運動会や野球の試合などには必ず足を運ぶ人だった。そしてとにかく叫ぶ。お気に入りのフレーズは
「そらいけえ」
だった。子供心ながら野球の試合で何をどういけなのか全く腑に落ちてなかったのだが、一方、何かを悟ったように双子の兄は祖母の方をみて頷くのが毎回鼻についていた。
孫である僕や兄のみならず、同じチームメイトや敵チームに対してもとにかく叫ぶ。思春期時は恥ずかしさのあまり、祖母が会場に来るのが嫌で、試合の日程などを伝えないこともあったが、島の狭さのせいか、もしくは母がこっそり告げていたのか、どこからともなく詳細をかぎつけて、島の占い師かとでもいうような大きなサングラスをつけて、会場に漏れなく現れるのだった。とうとう、祖母の雄叫びはある種、試合名物となり、子供たちや保護者の方の笑いを生んでいた。まぁ本人は気づきもせず変わらず必死に叫んでいたのだが。
祖父母はジャガイモをつくる農家だ。幼少期から、炎天下の中、何時間も畑仕事を手伝わされることも良くあった。その度に、同じ仕事量をしていたはずの僕と双子の兄への「お駄賃」の額が桁ひとつ違っていたことを実は僕は知っている。それが、なんだか馬鹿らしくなって、次第に僕だけ畑仕事を手伝いたがらなくなったもんだから、祖父母からの愛の天秤はもう僕側に傾くことは遂に無くなった。
島から横浜に出る少し前のことだ。柄にもなく最後だからと畑仕事を手伝った。その頃すでに兄は島を出ていて、その日は祖父母と僕の三人だった。朝から春空の下、なんで最後にいい格好したがったもんかなぁ、友達と遊びに出かければよかったと後悔しながら、それでも引くに引けずに半ば嫌々、畑に座りながら、掘り起こしたジャガイモの土を落としてコンテナーに入れていたところ、祖母がやってきて、二人で作業をすることになった。
別れが直前になった今、第二軍の孫ですら島からいなくなるのがやはり恋しいのか、祖母は聞いてもいないのに僕らがまだ小さい頃孫みんなをいっぺんに風呂に入れた話、昔、整骨院で孫を褒められとても誇らしかった話、東京は怖いところだから頑張りなさいよって話など多分十八年間初めてだろうと思うくらい二人きりでたんと話した。
そして最後は祖母お決まりのあの話だった。
父方の祖父は早いこと死んだ。たしか僕が三歳の頃だったと思う。たばこ農家をしながら市議会員もしていた祖父は過労死で死んだのだ。祖母はその話をよくする。今のあんたや兄を祖父に見せてあげいたって、きっと空からいつでも見守っているよって、毎度涙ぐみながら話す。幼少期から聞かされていたエピソードトークなので、またこの話かと思いながらも、島をでる時分、いよいよこの話もしばらく聞き納めかと思うと何やら胸に込み上げるものもあった。
祖母は
「誰しも、いつ死ぬのか分からないのだから、直向きに真摯にそしていつだって驕らずに命を大切にせんばやけんね。」
と続けた。
さすがに九州の男は泣くなと育てられてきた僕も、少し瞳が潤んできた。その瞬間だった。僕と祖母の目の前を一匹の小さなネズミが横切った。その隣にはかじられた跡のある小さなじゃがいもがあるではないか。すると祖母は徐に右膝あたりにあった拳大の岩を持ち上げなんと、そのネズミに振り落としたのだ。その速さまるで光の如く。天誅を下された哀れなネズミは、再びジャガイモにありつけることなく、息を引き取っていた。そして祖母は何事もなかったように、手ぬぐいで涙を吹きながら、「命の大切さ」話を続けたのだ。
祖母は家畜として牛も何頭か飼育している。それぞれに名前をつけてジャガイモ作業の前後で、肥だしや、牛へのマッサージなどもこなす。祖母は牛が大好きで、家に隣接する牛小屋で多くの時間を費やしていた。
そんな大好きな牛が競に出される日は毎度、大粒の涙をこぼしていた。一年間、昼夜問わず手塩にかけ、名前までつけて可愛がってきた子牛が母牛から離されてトラックの荷台に乗せられるのだ、そりゃそうだ。牛たちも文字通り本当に悲しい時は涙を流す。荷台から溢れるばかりの子牛の涙と祖母の雄叫びにも匹敵するほどの「行かないで」を叫ぶ母牛を見ていると側で見ている僕ですら、本当に罪悪感に苛まれる。トラックが見えなくなるまで牛たちは泣き叫び、祖母は頭に巻いていた手拭いで涙を抑えたり、子牛に向けて大きく手をふったりする、ドラマさながら本当に悲しい場面だ。
この現場に、生業とはいえ定期的に立ち会わなければいけない祖母を思うと不憫で、たまには祖母孝行で肩でもさすってやろうかと、横目でチラと見ると、先程まで大粒の涙を流していた、祖母はもうおらず、家の方へと踵を返しながら
「思ってたよりも高く売れたなぁ、今夜は奮発して五島牛で焼肉でもするか。」
と嬉々としていた。そんな祖母の背中から僕は逞しさとは何かを学んだのかもしれない。
実は、祖母は一度だけ僕の旦那にあったことがある。
まだ僕らが付き合いだしたての頃、ちょうどゴールデンウィークで帰省するタイミングがあったので彼を連れて帰省したのだ。その頃はまだ家族にすらカミングアウトしていなかったので、東京でできた外国人の友達という紹介で祖父母宅を訪れた。
事前に訪問する旨を伝えていたのだが、祖母宅について名前を呼んでも返事がない。
牛小屋かと思い、覗くもそこにもいない。
どこかしらと思いながら祖母宅に上がると、これまで見たことのない一張羅の洋服を着て、これでもかと濃い紅をつけ、昨晩カーラーを巻きに巻いたであろう髪を携えた祖母がそこにいたのだ。
祖母のそんな姿は生まれてこの方見たことがなく呆気に取られている僕らのことは気にも止めず、この日のために勉強したらしい九州訛りの、サンキューを得意げな顔でましてや英語を母国語にもつ彼にお見舞いしたのだった。
苦笑いの彼に、得意げの祖母。別れ際にはなんと、祖母の方からハグをしようと彼へと両手をひらいたではないか。
彼とハグをしながら、嬉しそうにニヤつく祖母のあの顔を僕は忘れない。僕はまだしも、祖母お気に入りの双子の兄ですらハグはしたことがないというのに。
そういえば、いつぞや祖母が珍しく彼女の夢を話してくれたことがあった。
それは昔したみたいにもう一度だけ、孫みんなをいっぺんに風呂に入れて身体を洗ってあげるというものだった。
確かに昔は、孫沢山ゆえに二十人近くをいっぺんに風呂に入れてきたのだろう。孫たちがワイワイ、キャッキャッ言いながら風呂に入れるのは確かに楽しかったのだろうが、孫たちももう平均して三十歳以上だ。
流石に色んな意味で、もうその夢を叶えてあげられそうにはない。
いや、待てよ。
彼女のお気に入りである、僕の双子の兄なら、文字通り一肌脱いであげるかもしれない。なんてたって兄が今まで祖母からもらってきたお小遣いの額は、僕含めた他の孫がもらってきたそれと額が違うのだから。
間もなく島に帰省する。お盆を島で過ごすのはおそらく十年以上ぶりだ。この間母に、帰っている間に祖母の病院を訪問できるのか聞いていたところ
「あんたが帰ってくるまでに生きてるか分からんけんねえ」
と言われた。
逞しく、人を威圧する勇ましさがある彼女が病気でそんなにも弱っている姿が僕には一切イメージできない。この夏は僕含め他の孫たちも多数、島に集結すると聞いた。皆が病室に揃って、昔のようにワイワイ、キャッキャッしていたらきっと、
「うるさかねえ」
と笑いながら叫ばれるのではないかと密かに期待している。
その時はぜひ、ロンドンで培った僕の英語力を以って、正しいサンキューの発音を教えられたらいい。
九州男児は逞しくて、笑うのも一生に三度とか言われてるみたいだけど、女性はもっと強いのね!
お祖母様はその典型でしょうね。
ハリオさんの家庭環境が時に羨ましく思える事かあります