子供の頃、眠りたい時は『となりのトトロ』をテレビで流していた。
それは僕なりのジンクスだったのだ。
理由は特にないのだが、『となりのトトロ』を見ていると、どんな場面でも必ず睡魔が襲ってきていた。しかも結構、序盤の方で。
だから僕は、トトロが作中で実際何をするのか、サツキとメイが結局どうなるのか、この作品はどんなメッセージを孕んでいるの考えたこともない。恥ずかしながら今の今まで、『となりのトトロ』を最後まで起きて見ていたことがないのだ。
昨年、ロンドンで『となりのトトロ』の舞台が行われたらしい。確かに地下鉄や街中、至るところでその広告をそういえば見たなぁと思っていた矢先、今年も好評につき再演をするってことを聞き、モノは試しだとチケットを購入したのが数ヶ月前。11月末のチケットだったのだがその週になるまで、正直その舞台のことはすっかり忘れていた。一週間のスケジュールを確認していたある日曜日、あっそういえば今週トトロじゃん、といった具合に思い出したのである。
正直、行こうかなぁ、でもめんどくさいなぁという感情が第一に生まれた。その一週間は比較的忙しかったものもあるし、そもそも僕なりのジンクスに沿って行ってもすぐ寝てしまうだけかもしれないしと、自分でチケットをとったくせに、あまり乗り気ではなかった。
結局、「まぁ、、、でもせっかくだし」というなんともジャーパニージーな理由で会場まで足を運んだのだった。
会場は子供のみならず、大人たちも多数いた。皆が本当にトトロに会えるのを楽しみにしているような嬉々とした表情で席に座っている中、僕は肘をついてビールを飲みながら開演をまだかなぁ、トイレ行っとこうかなぁみたいな感じで待っていた。
舞台は定刻通り始まり、幕が上がるや否や僕は息をのんだ。
そこには古い日本家屋、そして舞台を駆け回る二人の少女たち。まるで登場キャラクターたちが本当に作中から遷移してきたかのよう『となりのトトロ』の世界がそこにあるのだ。そして誰しもが心待ちにしていたトトロの登場シーンでは思わず、感嘆したような、天晴れとでもいうよなため息が思わず口からこぼれた。それから舞台はどんどん物語が進んでいき、僕もそれに引っ張られるようにどんどんとその魅力に吸い寄せられていた。
気づくと、ボロボロ泣いていた。文字通り、本当にボロボロ涙が溢れていたのだ。しかもなんてことのない場面でだ。サツキとメイが掃除しながらお化けがいるじゃないかと怖がったり、地面に落ちている石を大切そうに拾い上げたりする、そんな些細なシーンひとつひとつになぜかボロボロと泣いていた。
この感情はなんだ?
なぜ僕は泣いているのだ?
自分でも何故ここまで涙が出ているのか、たまらなく不思議なほどに恐らく今年一、泣いていたのだ。
昔から、九州男児は泣くなと言われて育ってきたためか、僕は涙にどこか否定的な感覚を持っている。泣くことは弱いこと、みたいな感じだ。それに加えて、僕ってば本当にひねくれているところあるから、泣ける映画を真っ直ぐに泣いている人を見ると、けっ純粋ぶりやがってと卑下してしまうことすらある。(実際は羨ましいのだと思うけれど)
そんな、「涙、ダメ、ゼッタイ」の僕がボロボロ泣いているのだ。これは僕的、緊急事態である。さぁどうしてしまおうか、僕は必死に言い訳を考えた。
会場の空気が汚くて、アレルギーが出てるんだ。
さては、さっきガブ飲みしていたビールで酔っているな。
はたまた、舞台の証明が眩しすぎてドライアイになっているんだ。
などといった、言い訳をウダウダ並べながら必死に今自分が泣いている理由をどこか何かのせい・誰かのせいにしていたのだが、物語の中で、サツキとメイ家族の隣に住むおばあちゃんが言い放った、
「小ちぇー頃には、わしにも見えたが。そうか、あんたらにも見えたんけえ。」
というセリフにて、あぁそういうことかと腑に落ちた。
懐かしいのだ。ただただ懐かしいのだ。
まるで幼少期の自分や兄弟、家族や友達、近所のひとたちを客観的に観ているみたいなのだ。僕はどっちかというとメイみたいな子供で、ダメなことほどしたくなるし、勝手に森に入りひとりで秘密基地をつくるし、その度には不思議な何かに出会ったんだと自慢げに皆にうそぶいていた。でも確かに当時の僕には、本当に不思議なものばかりがまわりに溢れていた様な気がする。
モノを大切にするほどにそのモノと友達にもなれたし、夕刻になると走って帰りたくなるほどのゾッとする気配も感じたし、大人に行くなと言われた場所には本当にたくさんの宝物があったし。
いつからか東京に出て、社会人になり、どっかで人間関係や物事を損得勘定で考える打算さを培った自分と、幼少期の自分を投影させた舞台上にいる少女ふたりを見ていると、たまらなく懐かしく、そして恋しい感情になっていたのだ。
虫がいれば近くで見たくて手に取ってみたり、綺麗な貝殻を探すためだけに何時間も砂浜にいたり、どうしたって越えられないであろう塀を登れるんじゃないかなと何度も試みてみたりみたいなことって、そういえばもうどんだけしてないのかなぁって舞台をみながら考えていた。
実家の使われていない洋間も、じいちゃん家の裏庭も、学校へ行くまでの誰も知らない近道も、今となっては存在すら忘れてしまっていた数々の場所が急にフラッシュバックして、ただひたすらに懐かしく、そしてどこか恋しくも感じていた。
そして同時に、落雷が落ちるように妙に納得したのだ。なぜ僕が子供の頃、『となりのトトロ』を見るとすぐに眠れいてたのかを。
それは『となりのトトロ』があの頃の僕にはあまりにも退屈だったのだ。それはきっと、自分や周囲の生活をみているのと何ら変わらなかったからだと思う。まるでホームビデオを見ているような、昨日あったことをテレビで見せられているような、きっとそんな感覚がしていたんだと思う。
そして少しだけグレーに染まった大人の自分が今こうして『となりのトトロ』を見るとあまりにも懐かしさと恋しさでボロボロ泣いてしまうようなこの感情は、きっと無垢で真白な幼少期のあの頃の僕にはきっと分かりえないんだろうなと少しだけ悲しくなった。
寝る間なんて一瞬もないほど、むしろインターバルすら不要だと思うほどに、あっという間に『となりのトトロ』の舞台は幕を閉じた。スタンディングオベーションしながら、あの頃の好奇心ってどこ行ったかなぁ、まだ微量でも残っていないもんなのかなぁ、そうだと嬉しいなと自問していた。
だからってわけではないけれど帰り道は、少しだけ上を見ながら歩いた。あっこんなとこに駅があんのか、あれっあそこカフェなんてあったっけと、街は知っているようで見落としてたものだらけで溢れていた。
おお、ソクラテスこれぞまさしく「無知の知」。人生に知ったかぶりになっていた自分を少し見直そうと、そう思えた帰り道、あの頃の僕にちょっと似ている少年が笑いかけてくれた。